あれから23年。

昨年、熊本を訪れる機会があった。かの大地震が起きてから、熊本に行くのははじめてだった。被災地に赴くことが目的ではなかったので、いちばん被害のひどかったであろう地区には足を踏み入れなかったのもあるが、わたしが見た熊本の景色は地震以前のそれとあまり変わらなく映ったので、そのことを熊本に住む友人に告げた。
 
「壊れた建物とか、すでに撤去されちゃってるからね。パッと見は、変わらないように見えるよね。」
 
久しぶりに買い物に訪れた場所で、明らかに新しいお店に変わっているのはわかるのだけれど、以前、そこが何屋さんだったのか、さっぱり思い出せない。ということが、わたしにはよくあるのだが、そういった記憶力の乏しさも手伝って、以前はそこにあったものがなくなっていても、気づかずに通り過ぎてしまっていたのだろう。よそ者であるから、なおさら。
 
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23年も経つと、さすがに街はかなりの復興を遂げる。それこそ、パッと見は昔と何も変わらない。
だけど、そこだけ妙にきれいに整備されている道路とか、そこだけ比較的新しい家が建ち並んだ一画とか、昔はにぎわっていた場所が閑散としているとか、その逆とか、その土地の人間にはいまだにひしひしと伝わる、街の違和感のようなものが、確実に残っているような気がする。
 
街を失った人以上に、人を失った人は深刻だ。この23年、なぜあの人が犠牲になってしまったのか、なぜ自分ではなかったのか、なぜ生きていかなければいけないのか、どうやって生きていけばいいのか、ずっと苦しんでいる。だけど、その苦しみをひた隠しにして生きる。親や祖父母、きょうだいなど、拠りどころをなくしたがゆえに、周りにがんばっている姿を見せるしかなかったのだ。
 
苦しみはこのまま消えることはないのだろう。けれど、それが少しでも和らいで、犠牲に遭われた方々にも生き延びた方々にも、“安らぎ”がおとずれることを祈るばかり。
 
今朝のNHKあさイチ』を観て、そう思った。
 
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いつか、1月17日午前5時46分に東遊園地に行って、祈りを捧げたいです。
 
手嶌ゆり子でした。